連絡船 ── 航行記(第一期・第二期)



(六)はじめに ──
    書店員による「手書きPOP」

 どれだけのひとがそう思っているかわかりませんが、本の売りかた(書店のする・出版社のする・取次のする)ということで「『白い犬とワルツを』以降」といういいかたができるのじゃないか、と私は危惧します。あれ以降、本を売るために「書店員」というものを担ぎ出しやすくなった、出版社が本の販売促進をするときのひとつの方法として「書店員」と「手書きPOP」とをあたりまえのように考えやすくなった、読者も書店を訪れてあたりまえのように平台での「手書きPOP」の林立を受け入れるようになった(受け入れざるをえなくなった)、書店員自身もPOPを書きやすくなった、ということがあるのじゃないかということです。先に私の使った表現 ──「ヨーイ、ドン」── が当てはまるはずの「本屋大賞」もこれに連なるでしょう。しかし、その「『白い犬とワルツを』以降」というのは、『白い犬とワルツを』の販売促進の際にそもそも考えられていたものの誤用・濫用・乱用・悪用ではないか? 先にいいましたが、「書店員が発言する」という標語のもとに狡猾な「すり替え」が行なわれているのではないか? と私は思っているんです。

 正直にいいますが、私には、いまたくさんの書店で見られる「手書きPOP」 ── ここでも私は実例をひとつも挙げません ── が書き手自らの幼さ・無知の表明だとしか思えませんし、そんな書き手に親しげに目配せされる客も相当にばかにされているものだなあ(POPは必ず、その書き手がどんな高さに客の読書のレヴェルを設定しているかを示します)、と思うんです。そうして、多くが「読んでもらう」ためでなく、直接に「買ってもらう」ために書かれてもいるでしょう。結果的に「買ってもらう」ことになるとしても、「読んでもらう」ために書かれたPOPは「買ってもらう」ために書かれたPOPとははっきり違います(たとえその文面に「さあ、レジへ」と書かれていた ── 私自身がある作品についてのものにそう書きました ── としても)。「買ってもらう」ことなんかほんとうはどうでもいいんです。ここでは「読んでもらう」ことの方が上位であるべきです。そうしてこそ「買ってもらえる」ことになるはずなんです。しかし、こういう事態 ──「書き手自らの幼さ・無知の表明」であるPOP、「売らんかな」のPOPの氾濫 ── は当時から予想もしていました。このことで、ある出版社の営業のひと(いまは編集者になっていますが)にいわれました。「あなたのやったことに功と罪がある」と。私もその通りだと思っています。

 で、いま多くの書店で肩身の狭い思いをしているのは、実はしっかり本を読める書店員なのではないか、と想像もします。つまり、彼はたぶんこういうふうにいわれるんです。おまえの推す作品なんかじゃ、商売にならないんだよ。そうして、彼よりはるかに浅い読みしかできないにもかかわらず、商売人としては活発な行動力のある書店員の推すものが現実に売れてしまう。しかし、私が考えていたのは、これまで売れすじと考えられていたものを否定し、はっきり「よい」ものを推すことのできる前者のようなひとたちが動きやすくなることだったんです。それが、裏目に出てしまった……。

 また、こういうこともある。ノルマのようにして従業員にPOPを書かせている店があるんじゃないでしょうか? そうして、それを苦痛に感じている書店員もいれば、まったく平気ですらすらといいかげんに、読んでもいない本のPOPを書く書店員もいる(そうすれば、とにかく売れるから、というのが彼の理屈です)……。あるいは、読んで自分が「よい」と思わなかったにもかかわらず、読んだからには・商売になるからには「よい」ということにしてしまって「手書きPOP」を作った書店員も必ずいるでしょう。

 売るために読んではいけないんですよ。順番が違う。しかも、POPの数を増やしたいばかりに、月に数十冊も読むひとがいる。これも繰り返しですが、そういうひとの読書量に敬服する必要なんか全然ないんです。むしろ軽蔑こそを私は薦めます。そのひとはそんな動機で、そんなペースで読めてしまえるような本しか読んでいないにすぎませんから。そんな程度のものを客に薦めているんです。それは客をばかにしていることになりはしませんか? 読んで、「よい」と思ったものだけを薦めるというのでなくてはいけない。しかも、そのためには「自分に本を読み解く力のあること、あるいは、ないことの自覚」が必ずなくてはなりません。加えて、単に書き手の「善意」だけで書いては駄目だと私は考えています。「善意」というものはもっと慎重に検討されなくてはならないものです。このことの一側面についていいますけれど、自分の書いたPOPのせいで、それがついていなければ読むはずだった客が手に取ることすらもやめるということが当然ありえます。POPは「読む」ことの指標にはなりますが、「読まない」ことの指標にもなりうるということです。だから、そうなってもかまわないというほどのPOPを書くべきでしょう。自分の書いたもののために「読まない」を選択する客がいてもかまわない ── というのは、つまり、全方位的に「みなさーん!」と誰にも彼にもに呼びかけて、「善意」さえあればそれが伝わるはずだ、と考えるその考えかたの、否定です。おそらく、誰でも彼でもにでなく、ほとんどの客を排除して、極めて少数の客だけを対象にするような偏向すら恐れずにいられるほどのPOPを、まず想像すべきなんです。そのためには、また、自分の感動を疑うこともできなくてはならないのじゃないでしょうか。これは、自分の手に余るほどのものにこそPOPを書けということにもなるでしょう。POPにどんなことを書いてもかまわないんですが、ただ、書いた本人だけは、私のこれまでにいったような意味で、自分の書いたことを信じていなくてはなりません。

 読んでもいない本にPOPを書く書店員などもちろん言語道断ですが、私がこうもいまの多くの書店に見られる「手書きPOP」を非難する理由は、その書き手の志の低さです。放っておいてもそこそこ売れている作家の後押し(時流への追随)をするだけでしかない ── これがかなりの売上になることをもちろん私は承知しています ── POP、新刊を主たる対象にしたPOP、埋もれている本の「掘り起こし」などときれいごとをいいながら、とどのつまりは現に売れているものの類似品 ──「チューニング」のいらない・到底「作品」とは呼べないもの、ということです ── を対象にしかしていないPOP、そういうものの書き手の志の低さ。結局、大方の客・流行に合わせる ── 商売として即効性のある・目先を考えての ── ことしかできないPOP。そうではないものを考えるべきだと私は思うんです。しかし、そういうPOPの書き手は、おそらくここで私のいう「そうではないもの」についてまったく理解することもできないし、仮にぼんやりとにせよ予感ができていたとしても、それに自分で自信を持つことができない。ある作品を推すということのためには、まず確固とした自分(「確固とした核・芯」)がなくてはなりません。しかし、それがなくて、まず周囲の顔色をうかがってしまう、周囲に合わせるために自分が腰砕けになる。その腰砕けの言い訳に、客に向けては自分の「善意」を、自分の勤める店あるいは出版社に向けては「売上への貢献」を持ち出す。まんまと彼に乗せられる客も、彼の勤める店も、彼が推す本の出版社も、彼を「優秀な書店員」だと評価することになるんでしょう。これはやはり「自分に本を読み解く力のあること、あるいは、ないことの自覚」などてんで思いもしない書店員が圧倒的多数なのだということです。いいですか、ある作品を推すという行為について、自分の確信以外のどんなものも理由にしてはいけないんです。責任は必ず自分ひとりだけが負うのだ、という覚悟がなくてはなりません。「それじゃ、POPなんか一枚も書けないよ」とか、「それじゃ、今年出版された本であなた(書店員)の推す ベスト3 はなんですか(こういうばかばかしい依頼があるんですね)、という雑誌からのアンケートに答えられないよ」というひとに向けて、私はこういいます。「書くな」、そして「答えるな」。

 シュテール夫人は亡きヨーアヒムの遺骸を見て、感激して泣いた。「英雄ですわ! 英雄でしたわ!」と彼女はいくどもさけび、埋葬式にはベートーヴェンの「エロティカ」を演奏しなくてはならないと要求した。
 「あなたは黙ってらっしゃい!」とセテムブリーニが横から叱りつけた。
(トーマス・マン『魔の山』 関泰祐・望月市恵訳 岩波文庫)

 こんなことをいう私がばかに見えるだろうということも、ちらと意識にはありますが、しかたがありません。しかし、現役の書店員のなかにも、私がなにをいっているのかを理解するひと・私と同じジレンマを抱えているひとがあるに違いないと思うんです。とにかく、これはどのみち誰かがいわなくてはならないことなんじゃないでしょうか。

 さて、一方に「本読みのプロ」などと呼ばれることになった「手書きPOP」の書店員というものがありつつ、他方にはこういうことがあります。
 多くの書店員(このなかには「手書きPOP」の書き手も大勢いるでしょう)が口にするのが、結局本を選ぶのは客なんだということです。だから、書店員が客の買う本を決めては・押しつけてはいけない。
 そこで、私がどうにもおかしいと思うことがあります。店頭で、客はその店に並んでいる本しか知りえないのじゃないでしょうか? その並びを決めているのは誰なんでしょうか? 
 そこでまた多くの書店員がいいます。その並びを決めているのも客なんだよ。なぜなら、毎日続々と出版され、押し寄せる新刊配本のなかから、ほんの短い期間にある程度の数の客が選んで買っていった本が追加注文され、それがいずれは既刊の棚に定着し、そこからまた何人もの客が買っていく(それが最も棚回転のよい本である)わけだから。棚をつくっているのは、そういうわけで、客なんだよ。しかし、たしかに結局本を選ぶのは客だとしても、ですよ、客の目の前にその本を並べている ── しかも、かなりの強弱をつけて ── のは書店員です。そして、書店には世のなかのすべての本を並べることなんか物理的に不可能なわけです。そこでまず書店員が取捨選択を行なっているんです。まず書店員が選び、そのなかから客が選んでいるんです。そうなると、書店員の選択というのは、多くの客の買いそうなものだと書店員の判断したもの(これはもちろん先の「手書きPOP」と同じで、書店員が客のレヴェルをどのような高さに設定しているかを示します)に絞られているはずです。買いそうな、というのが、これまでに類似の傾向のものが売れたという認識に頼る判断になるはずです。

 むろん、客は出版社のする「宣伝」── これについては、先にいいました ── によってある程度の情報を持っています。広告の切り抜きを持って書店に来る客も多数あります。「宣伝」によって、多くの客が、自分の読むべき本はこれだと思うし、これを置いていない書店は駄目な書店だと思うことになります。駄目だと思われるのがいやだから、書店はそれに追随します。ここでも、先の全方位的な判断(「みなさーん!」)が働き、偏向は忌避されます。
 しかし、私がここで考えているのは、客が現物を手に取って購入するその現場の重要性です。出版社の「宣伝」や、それにともなっての世のなかの流行を無視し、まったく否定して、独立した品揃えを客の前に提出することの可能な最後の場所が書店なのだということなんです。つまり、書店は品揃えに責任を感じなくて・自覚しなくていいのかということです。それとも、書店というのは、単に、なんの信念もなく、続々と出版され、送られてくるものを右から左へと流していくことが仕事なんですか? それならそれで、いいんですよ。そう認めればいい。

 たとえば、料理を出している店であれば、その店の従業員は自分たちが客に出している料理がどんな味であるか、知っているはずです(で、彼らは自身で「まずい」と承知しているものをどれだけ客に出しうるのでしょうか?)。しかし、書店ではそうはいかない。全部を読むのは不可能だからです(そんなとき、例の「速読」術を身につけていたら、役に立ちそうですか? しかし、私が「読む」というのは、単に最後のページまで目で文字をたどるということじゃないんです)。書店員は品揃えを「全国平均」に頼らざるをえません。それに頼らざるをえない書店員がつくりあげた陳列があって、それを見た客が買っていきますね。そうして、客はそういう書店の品揃え(その強弱を含めて)こそが世のなかの本のありかたなのだと思うわけです(それしか見せてもらっていないのだから)。そこにない本には思いも及ばない。これが世のなかの本の読みかたをつくりあげている(一〇〇万部単位のベストセラーを成立させている)のじゃないでしょうか? それをまた逆手にとった書店員が自分の選択の責任をすり替えて、客になすりつけていることになっていないでしょうか? 結局本を選ぶのは客なんだというとき、その客にいまのような選びかた(さらには、その本の読みかた)をさせてしまっているのが誰なのかを考える必要があると思います。つまり、私が疑うのは、本を選んでいるのは結局、自分の責任を客にすり替えようとしている書店員なんじゃないか、ということです。そのようなすり替えなしに、ほとんどの書店員は動くことができないのじゃないかと疑っているんです。そのようなすり替えのうえに立って、いま「手書きPOP」が量産されているのじゃないでしょうか?(もっとも、書店員の背後には出版社や取次があるわけで、私のこういういいかたは書店員に対しては酷であるかもしれません。しかし、いまの私の夢想では、書店員の大多数が行動を起こせば、それら背後の存在も変化せざるをえないはずなんです)。

 先に私は、自分がゲラを読んだ『*****』という本について、こういいました。

 とはいえ、私が自分の勤める書店でその『*****』やその次の作品を置かなかったかというと、置きましたし、『*****』はかなり売りもしました。売れるのだからしかたがない、といまはいうしかありません。いまやその当時思ってもみなかったほどの苦痛にもなっているこの矛盾……。

 それで、実際に私の日常について簡単に触れますけれど、私は自分が明らかに「ひどい」と思っている本を自分の勤める書店に積み上げるわけです。こういうことは他にいくらもあります。『*****』とはまたべつの作家(これまでも彼の本はかなり売れていたんですね)のゲラを読んで、「ひどい」と思ったものがあったんですが、私の思ったのは ── 全然意外でもありませんでしたが ──、「このひとはこんなひどいものを書いていたのか。直木賞がらみで、このひとのこれまでの本についてあれこれ真面目にしゃべっているひとを何人も知っているけれど、そのひとたちがまるっきりばかに思えてきた」ということでした。さらに、またべつの、ものすごく売れている作家 ── このひとがベストセラー作家だということを誰も否定しないというほどのひとです ── について、あるひとがこういうのを私は聞きました。「また、新作が出た! いったいどうしてこのひとはこうもどんどん書くことができるんだろうねえ!」。というそのことばは「いったいこのひとはどうして、こうも素晴らしい作品を次々に書くことができるんだろうねえ!」という意味なんですが、その作家の作品をひとつも読んでいない私が思ったのは、「こうも次々に新作を発表できるこの書き手は、そういうペースで書けることしか書いていない・そういうペースで書くことを前提に書いていくから、そうできるのであって、そんなペースで書けてしまえる・そもそもそんなペースで書こうとしたようなばかなものなんかを私は読みはしないぞ」ということでした。

「思ってもみなかったほどの苦痛にもなっているこの矛盾」です。毎日がこれです。

 いいんですよ、本の選択は書店員がするというのは。するなら、すればいい。ただ、それを自分の責任においてすべきだし、それを自らきちんと認めるべきだと思うんです。しかも、それは積極的な選択であるべきなんです。どんな「すり替え」も行なってはいけません。もし、書店員ではなく、あくまで客が本の選択をしているんだといい張るならば、「手書きPOP」なんかやめてしまえばいい、と思います。「手書きPOP」の成功例とかいうことをごまかしで利用するのはやめてしまえばいい。
 端的に、「書店員が発言する」というのが、こんなちゃちなもの ── とどのつまり、世のなかへの追随・出版社の思惑通りにしゃべる「読者モニター」という立場の甘受 ── でしかないのだったら、もうやめてしまえばいい、と思うわけです。「書店員が発言する」のならば、「書店員」にしかいえないようなこと ── 出版社や、それこそ一般の「読者モニター」や、文芸評論家なんかにはいえないようなこと ── をいうべきでしょう。それをいうのは自分しかいないというほどのことをいうべきです。これは、繰り返しになりますが、採りあげる本の選定と直結してもいるはずです。極端ないいかたをすれば、売れかけている「稚拙な作品(実は「作品」ですらないもの)」を売り伸ばすために、「書店員」たちの繰り出すお手軽な「手書きPOP」が、商業的には命運の尽きかけている「よい作品」の死期を早めもしているでしょう。私の考えているのは、商業的に命運の尽きかけている「よい作品」にこそ「手書きPOP」は多用されるべきであって、そのためには、売れかけている「稚拙な作品(実は「作品」ですらないもの)」など放っておけということです。すぐにも「無理だ」と声のあがることでしょうが。
(もちろん、すべての本について書店員が選定するというのが現実的に不可能だということは承知しています。そうして、私には理想の書店像 ── 書店はどのようにあるべきか ── というものを現実的に想像することもできていません。私はきちんとしたデータの検証もせずにしゃべっていますし、もしここで私のいう通りの営業をいま始めたら、その書店はたちまちに潰れてしまうでしょう。私はただ、書店のしてはいけないこと、それと、非現実での書店のありかただけしか、いうことができないんです。警告を発することはできますが、代案は持ちません。)

 それでも、それこそが世のなかなんだよ。少しは大人になれよ、でしょうか? それをいっちゃあ、おしまいよ、でしょうか? そうでしょう、そうでしょう。
 しかし、私がこのホームページでいってみたいことのひとつには、こういうこと ── 中学生・高校生じみたこと(いまの中学生・高校生がどんなものかわかりませんが)── をすでに四十代半ばまで生きてしまっている人間が考えつづけているということでもあります。こんなことにはとっくに拘泥しなくなっているのが四十代半ばの「大人」だろうと、昔は考えていたんですが、私は全然そんなふうにはなっていないんですよ。べつのいいかたをすれば、読書をつづけるということは、そういう「大人」にならない・なれないということなのかもしれないんですね。どうでしょう? だったら、読書なんかしないでいた方がいいでしょうか?

 とはいえ、いくらか私が安堵するようなことをいってくれているひともいますが……。

 商売をしていると、よく「お客さまのためにやっている」というようなことを言います。あるいは、聞きます。お客さまに育てられて自分の味が研鑚されるというようなことも。けれども、僕はそう考えたことはないんです。誰のためでもない、僕は自分のためにそば屋という商売をしている。まず、自分が大事なんです。もちろん、おいしいそばをお客さんに出そう、あるいは、今日のそばを喜んでもらえるかな、などとは考えます。おいしいものを提供して喜んでもらいたい、というのは食べもの屋の主人としては当然の願いです。しかしそれは結果であって、僕は自分の仕事、自分のそばをやりたいようにやる。なんだか傲慢に聞こえるかもしれませんが。手打ちが人気だから、手打ちをするのではない。自分が食べておいしい、そばは手打ちのほうが適している、と考えるから手打ちをしている。そういうことです。
(高橋邦弘『そば屋 翁』 文春文庫)

 こう考えてきて、しばらく前に自分のいったことば ──「作品は読者に合わせてつくられているわけではない読者こそ作品に合わせなければならない」── をもう一度いおうとして、私はぞっとするんですね。私の考えていることの、ある種荒涼とでもいったらいいような感じに呆然とするんです。いまの書店・出版業界の常識からすると、── 読者でなく作品に合わせて品揃えを考える ── それは、あまりに孤立した企てなんですね。

 また、日本人で、ずっと日本で暮らしてきて、日本語を話し、また読み書きが一応ふつうにできるという、それだけのことで、日本語で書かれた作品ならばすべて自分にも読みこなすことができるはずだ、そういう自分たちのために・そういう自分たちを楽しませるために、それらの作品は存在している、と無邪気にも思っているひとの多いことを、むろん私は知っています。そんなひとの認識が恥ずべきものであることを、私はいわなくてはなりません。そういうひとの無邪気さを利用する商売人の愚劣を、私はいわなくてはなりません。
 商売人 ── です。書店員の他にも罪深いひとたちがいますね。「あなたの考えていたのとはべつの方向に進んでいますね。しかし、それはそれで、とにかく書店員が発言する・発言できるというのはいいことなんです」という理屈でいま商売している文芸評論家たち ── がいますが、彼らは、いったん発生した市場の「流れ」に乗る・絶やさないようにするという狙いのために、大きい妥協をしているでしょう(彼らが妥協をしていないというのなら、それは彼らの無能を明かします。それとも、彼らはとても愚かで、優しいひとたちなのかもしれません。「せっかく書店員が盛り上がっているんだから、助けてあげましょうよ」。しかし、問題はその盛り上がりかたです)。このことで妥協しちゃ駄目なんですよ。それをやったら、すべてが台無しになるということを彼らはわかっているんですか? 私は、誰も彼もが目先のことばかり追いすぎると思っています。しかし、目先なしに、そのさらに先もありえないじゃないか、でしょうか?

 私は本を読むということについて、世のなかの大多数のひととは違うことを考えているんでしょう。そうして、大多数の書店員も、ある傾向の文芸評論家も世のなかの大多数のひとのうちに入るということですね。大多数の「本が好き」(私は「本好き書店員」などという宣伝コピーを見るたびに力が抜けます)とか「活字中毒」──「速読・多読・新刊チェック」── などというひとたちが実際にどういう本を読んでいるのか聞いてみてげんなりしてしまう私は、だから、ほんのわずかな例外的なひとたちに望みをかけているわけです。きっとそういうひとたちがいるはずです。

 昔話ですが、私は大学(文学部)に入学したとき、自分など太刀打ちできないほどたくさんの本を読んでいる仲間が大勢いることだろうと思っていましたっけ。実際を知って私は落胆しただけでなく、同級生たちの読みかたにもあきれてしまいました。こんな程度でしかないのか? かろうじて一人だけ、ものすごく読んでいるというのがいましたが。
 それと同じことをいま、書店員や文芸評論家などに感じています。私はこのことを考えるときしばしば「一本の葱」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)や『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)を思い浮かべます。

『昔むかし、一人の根性曲りの女がいて、死んだのね。そして死んだあと、一つの善行も残らなかったので、悪魔たちはその女をつかまえて、火の池に放りこんだんですって。その女の守護天使はじっと立って、何か神さまに報告できるような善行を思い出そうと考えているうちに、やっと思い出して、神さまにこう言ったのね。あの女は野菜畑で葱を一本ぬいて、乞食にやったことがありますって。すると神さまはこう答えたんだわ。それなら、その葱をとってきて、火の池にいる女にさしのべてやるがよい。それにつかまらせて、ひっぱるのだ。もし池から女を引きだせたら、天国に入れてやるがいいし、もし葱がちぎれたら、女は今いる場所にそのまま留まらせるのだ。天使は女のところに走って、葱をさしのべてやったのね。さ、女よ、これにつかまって、ぬけでるがいい。そして天使はそろそろとひっぱりはじめたの。ところがすっかり引きあげそうになったとき、池にいたほかの罪びとたちが、女が引き上げられているのを見て、いっしょに引きだしてもらおうと、みんなして女にしがみついたんですって。ところがその女は根性曲りなんで、足で蹴落しにかかったんだわ。「わたしが引き上げてもらってるんだよ、あんたたちじゃないんだ。これはわたしの葱だ、あんたたちのじゃないよ」女がこう言い終ったとたん、葱はぷつんとちぎれてしまったの。そして女は火の池に落ちて、いまだに燃えつづけているのよ。天使は泣きだして、立ち去ったんですって』
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 あるいはまた、「大審問官」(これも『カラマーゾフの兄弟』)のことを。「大審問官」でいえば、私には「きみたちのほしいのは自由か、パンか、どちらかな?」という問いに対しての「パンを! 自由ではなく、パンを!」という叫びだけが聞こえてきます。

《パン》を認めていれば、お前は、個人たると全人類たるとを問わずすべての人間に共通する永遠の悩みに答えることになったはずだった。その悩みとは、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身でありつづけることになった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。
(同)

 あるいは、またべつの側面についてになりますが、

 ある日、民衆が彼に拍手喝采した。すると、《私がなにか馬鹿なことでも言ったのだろうか?》とフォキオンが言った。
(カミュ『太陽の讃歌 カミュの手帖 ── 1』 高畠正明訳 新潮文庫)

 私のこういう考えかたに対して、なんて傲慢なんだという声の噴出するだろうとは思いますが、しかたがありません。私にいわせれば、その「なんて傲慢なんだ」を当然にしているものの見かたが駄目なんですよ。その「なんて傲慢なんだ」の感性がはっきり「<みんなの読む本>を読む」に結んでいるでしょうし、一〇〇万部単位のベストセラーに結んでいるでしょう。いいですか、「みんな」なんてどうでもいいんですよ。どうやら誰かがはっきりといわなくてはならないようなんです。いったいなんだってこんなことをいわなくてはならないのか、と思っているのは他でもありません、私です。

X : だから、誰かがやらなければならない。誰がやるかといったら誰もいないから、オレがやるしかないのかなって思いますけどね。
(松沢呉一『魔羅の肖像』 新潮OH!文庫)

(この引用はという医者と松沢呉一との会話からのものですが、のことばはおそらく松沢呉一の強い共感を得ただろうと想像します。つまり、『魔羅の肖像』という著作の全体がそのまま「誰かがやらなければならない。誰がやるかといったら誰もいないから、オレがやるしかないのかな」という彼の動機の上に成り立っていると思われるからです。)

 こんなふうにしゃべる私が、では、誰からも突っこまれない・非の打ちどころのない人物で、書店での仕事も完璧にこなすし、生活ぶりも品行方正かというと、全然違います。たとえば、私は「どんなことにもベストを尽くす」なんていうことを、端から信じていません。なんでどんなことにもベストを尽さなくてはならないのか私にはわかりません。そうして私は、他の誰かにできることなら自分はできなくていい、と ── 特にこの二十年ほどは ── はっきり意識してふらふらとやってきました。その代わり、自分にできて、他の誰にもできないこと・誰もやろうとしないことをやるというつもりはあります。誰もが同じことをできなくちゃいけない、なんてことはありません。それぞれのひとにいろんなことでの力の差というのは歴然としてある。持ちつ持たれつでいいじゃないか、のんびり行こうよ、と思っているわけです。
 私は、私がここで企てていることを、私なんかよりずっと有効な形で実行しうる優秀なひとが世のなかに大勢いることを承知しています。しかし、おそらくそれらの優秀なひとはこんなことを企てないんですよ。そこが問題なんですね。だから、これをこんな愚鈍な形でしかできない私がやる、ということです。
 いやはや、自分がこんなことをする羽目に陥るなんて、思いもしていませんでした。

 とにかく、私がこうしているのはしかたがないんです。この場所に、私は押し出されてしまったんだと思っているんです。

 本をめぐる業界の動きについての私の否定的な意見というのがほんの一面だけにしか及んでいないこと(そればかりか、私が「読書案内」をしようと考えている書目もごく限られた範囲のものでしかありません。そうして、これを私は当然であるといいたいんです)をもちろん私は承知しています。しかし、全体を論証するなんてことをしようとも思わないんですね。全体については、またべつのひとがやってくれればいいでしょう。私は単純に、みんながみんな一斉に同じ本を読むなんてことのばからしさをいっているだけです。そんなふうじゃいけない、といっているだけ。「みんながみんな一斉に同じ本を読む」──「ヨーイ、ドン」── ことなしにこの業界が現状を維持できないだろう・「みんながみんな一斉に同じ本を読む」ことでこの業界が現状に至っているだろう、とも思います。しかし、現状維持のままでは結局衰退に向かうだけじゃないでしょうか?

 いやいや、そんなことよりも ──。
 いったいなぜ私がこんなことをしているかといえば、それは私が「この作品はすごい」と思っているものが消えていくことに我慢がならないからです。「これだけの仕事をしながら、評価されないでいる作家」にいったいどう償いをしたらいいのか、と思うからです。それだけです。

 しかし、これら傑作を思うとき、特別の心の痛みを覚える。それらはマーラーの音楽が批評家たちによって誤解されるだけでなく、マーラーでさえバランスを失い、自分の作品への自信を失うほど烈しく攻撃されているときに書かれたのである。初演を指揮するときの不安は芝居の初日のあがり以上のものだった。マーラーはオーケストラのパートを始終気にして手を入れ、それで健康を害した。「メルカー」誌 Der Melker に載ったマーラーについてのエッセイにあるシェーンベルクの言葉が想起されなければならない。

 マーラーが「私が間違っていたのでしょう」といわなければならなかったということに対して、彼等はどう答えようというのか? あらゆる時代を通じての最大の芸術家のひとりを、創造的精神にとって唯一の最高の報酬、つまりその芸術家が自分への信頼から「私は間違っていなかった」と感じるときに見出す報酬さえも奪われるところまで追い込んだことに対して非難されたとき、彼等はどういいわけしようというのだろう?
(マイケル・ケネディ『グスタフ・マーラー』 中河原理訳 芸術現代社)

 このように、世間様の需要と一致しないところに興味を抱いて精魂込めて原稿を書いたところで、単行本にならないどころか、印刷もされずに消えていくのが当然の帰結である。唯一需要がある体験派風俗ライターとしての仕事をひたすらこなしつつ、「無駄なことを考えてはいけない、需要のないことを書こうとしてはいけない」と再度自分に言い聞かせている次第。
(松沢呉一『魔羅の肖像』 新潮OH!文庫)

 ── こんなことを松沢呉一にいわせてしまっては駄目です。これはほんとうに申し訳ない。

 しばらく前の私の日記から引用しますが、

 昨日突然に了解して衝撃的だったことがある。いったいなぜ私が個人のホームページをつくってまで本の紹介をしようとするのか、この数か月ずっと考えてきたのだが、それがわかった。新聞や雑誌をはじめ、ネット上のものも含めての書評・感想の類がなぜああいう形なのか、なぜあれだけで終わってしまうのか、それに対してなぜ私はべつの形で、しかも長文でのものを書こうとするのか、そんなふうに考えてきた。昨日了解したのは、私以外の書評・感想の書き手が、その本の品切れになること、絶版になることを知らない・実感しえないで書いているということだ。細々とにせよ、その本の生き長らえることを、その本と通じる他の本が生き延びる方途を自分の書評・感想が見つけてやらなくてはならない・見つけられるはずだ・その責任があるということを私は知っている。これを知ると知らないとでは書きかたのまったく異なるはずなのだ。自分とその仲間うちだけがその本を読むことができればいいというのではなく、もっと多くのひとにその読書の機会を提供することが必要なのだ。

 というのは、「絶版」ということを、書店員という立場を通じて私は一般の読者よりよくわかっている、ということです。一般の読者は、その本が「絶版」であろうがなかろうが、とにかく自分が読めさえすればいいわけです。しかし、私にはそうではない。私は「私にはそうではない」ということをようやく自分ではっきり理解し、納得しました。私は、ある作品をただあるひとが読むだけでなく、その次のひとの読むことを考えています。そうして、さらにまたその次のひとの読むことを。それを、「絶版」は強力に妨げます。私にはそのことがわかりました。「絶版」はよくない。そうして、ある本が「絶版」になるのは、商業的に成績がよくなかったからということです。その本の「よい・悪い」というのとはべつの基準で、それは決まります。だから、私はなんとかそれを食い止める方策を見出そうとします。その方策のひとつがこのホームページであるわけです。
(二〇〇六年四月三日)
(二〇〇七年三月二十七日 改稿)
(二〇〇八年二月 改稿)




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